ふらっとにのせて

アラサー会社員のネタバレ用ブログ。 V6とSomething ELse担当

【雑記】対人関係がウェットでしんどい人へ

今回は推しとは関係ないネタです。

 

プロフィールにある通り、私は30代で、そこそこいい大人で、とはいえ同年代の友人たちは既婚(もしくは半永続的なパートナーがいる)の人よりも独身の人の方が多いという、

令和元年のアラサーとしてはごく一般的な状況下にいる人間です。

 

友人とは各自の推しの話をすることも多いですが、時には仕事や恋愛などのプライベートな話をすることも少なくありません。

ここ数年の友人の嘆きで増えたように感じるものがあります。

・遊びや食事の誘いはいつも自分からで寂しい

・自分が連絡したいと思う頻度ほど、相手は応じてくれない

・自分が想ってるほど、相手は自分を想ってくれない

 

つまりは、対人関係でどちらかといえばウェットタイプな人が、自分のウェットさにしんどくなってきているようです。

しんどさを覚えるのは、至極当然かと思います。

私たちの世代が思春期の頃、妙に人との繋がりが神格化されていて、まるで繋がりが希薄な人は世の中から必要とされていないダメな人みたいだった。私たちはウェットな人間になるように培養されてきました。

それなのに30歳近くなって、「大人の対応」とかいうものを求められたりするようになったうえ、世の中は「気に入らない対人関係をバサバサ切り捨て、ありのままに生きる自立した大人」がもてはやされるようになっていた。ウェットな人間になるように育てられたのに、育成完了後に待ち受けていたのはドライな人間こそ優れていると言われる世界でした。しんどくないはずがない。

 

かくいう私も、数年前までは毎日自分の重みで潰されかけてるウェット人間でした。

黒歴史の数々を列挙します。

・巨大感情を抱いている相手のSNSをチェックし、本人だけでなくリプライやいいねを送っている人間の動向までチェックしていた。写真付きの投稿は同行者が誰なのかの特定は出来る限りしていた。

・巨大感情を持っていない疎遠な相手であろうと、SNSのフォローを外されたら発狂レベルで混乱する。呼び出して自分の何が悪かったか問いただしたこともある。

・誕生日に予定がない自分が許せず、平日だろうとお構いなしで会える人を募る。深夜でも構わず会いに行く。

…できる限り行動が簡潔なものをピックアップしましたが、ほかにも行動を文章化しようとすると長ったらしくなるものや、細かいけど日々の事となると激重なものもあります。

いや今見返すと本当にヤバいな!? 友達よく見捨てなかったね!?!? 

 

ちなみに今はこんな感じ

・巨大感情を持っている相手が幸せに生きているならOK。自分が視界に入ってなくてもいい。現在パートナー的相手はいるけれど、相手のSNSアカウントには興味なし。

・自分のSNSのフォロワーを把握していない。増えたら通知でわかるけど、減ってもまったく気付かない。

・最新の誕生日は一人で北海道旅行。新千歳空港温泉は一人旅の宿として優秀すぎる。その日パートナーは同居している家に風俗を呼んでいた。知らない人を家に上げたことには怒っているけど、風俗を利用したことは怒っていないし、素人だったとしても同じ感情だったと思う。

 すなわち、私は言わばヘドロのようなウェット人間だったのが、砂漠みたいなドライ人間に変わりました。

 

そこで、今ウェットな自分の重さがしんどくて、少しでもドライ寄りになりたい人の参考になればと思い、どのような経緯で私がウェットからドライになったのかを書こうと思います。

それと同時に、今しんどい人は「ドライの人は辛くなさそうで、こちらばかり我慢していてずるい」と感じているのではと思います、私がそうだったので。

実際、この世の中ウェットな人の方が鬱憤をためやすいし、ウェットな人は繋がりのために自分のネガティブな感情も利用することが多々あるために、文章化されたしんどみはウェット側の意見ばかりです。

そこで、ドライ側のしんどみも最後に紹介して、「ウェットのままでいるのも選択肢の一つだけど、それでもドライになりたいならこんな方法もあります」という文章にしようと思います。

 

 

 

私をドライに変えたもの

まず、私は自分から「こんな自分を変えよう!」と思ったわけではありません。
結果的に対人関係の築き方が変化したにすぎません。
ただし、変わるには明確なきっかけがありました。
私の場合は、「就職してプログラミングに出会った」ことがきっかけでした。

ここで留意していただきたいのは、巷のインターネットでよく見る「カレに重たいと思わないためのHow to」的な記事に書いてあるような、
・彼以外に没頭できるものを見つけよ☆
・仕事で自分磨きの時間を作ろ☆
という話をしたいのではありません。
私はヘドロウェット時代こういう記事を散々見ましたが、
「没頭できる趣味も持ってるし、日々の生活(ヘドロ時代は学生・院生だったので仕事はしてない)も頑張っとるわ!!! 無趣味無職で暇だからこんなクソデカ感情持ち合わせてるんじゃねーんだよ!!!」
といつも憤っていました。

就職もプログラミングも単なるきっかけです。
このきっかけにより、私は「自分がどうしたら嬉しくなるのかを知り、自分で自分の機嫌が取れるようになりました」。
これがヘドロから砂漠に変わった理由です。


私に起こったこと


私が就職したとき、リーマンショック後で大卒でも正規雇用に就職出来れば御の字という状態でした。
ましてや文系の院卒など民間企業では見向きもされず。
不採用続きで、「今回の会社がダメだったら一旦就職はあきらめる」と親に宣言してから面接に挑んだ会社で何とか内定をもらえ、
就職したのはITのプログラマー職でした。ちなみに私にそれまでプログラミングの経験はまったくありません。マジで受かればなんでもよかった。
そこで新人研修と実務でプログラミングを学んでいき、プライベートでは某NPOのボランティアスタッフとして、Webサイトの作成やサーバーの管理などをするようになりました。
その結果、就職して一年も経つ頃には、「プログラミングをしている時間」が大好きになっていました。

 

尚、「プログラミング」が好きなわけではありません。そちらが好きだったらこんな文章書いてないで、Qiitaにコラムを書いたりGitHubにソースを上げていたりすることでしょう。
私自身、そういうプログラミングにまつわる諸々をすることに触手がわかないのに、何故仕事やNPOでコーディングしている時間がこんなにうれしくなってるんだ??と考えて、自分の行動とその時の感情を細かく確認してみることにしました。

どうやら、私は「こうすればうまくいくはず、と思って実行した結果が思い通りになる瞬間」に機嫌がよくなるらしいです。プログラムは嘘をつかないし気まぐれでもないので、誠実に向き合えば必ず期待するものを返してくれる、そうでない時はこちらが何かやらかしているというわかりやすさがよいです。
現在もプログラマーなので、常にそれを得られる環境にはいるのですが、足りなければ一人で知らない場所へ計画をしっかり立てて行ってみたり、初めての料理に挑戦してみたりしてこの瞬間を得ています。
それまでの私が機嫌のよくなることと言えば、「人に愛されて、大事にされて、必要とされること(それが自分も好意を持っている相手なら尚うれしい)」でした。つまり、他者を介してでなければ自分の機嫌が取れなかったわけですね。

全てのウェットさんがそうかはわかりませんが、少なくとも以前の私は、他者に与えられることでしか幸せを得る方法がなかったから、幸せになるためにヘドロ化して不幸になっていたようです。
他者から与えられなくても幸せを感じられる手段を知れた今は、自分の幸せと他者の言動を切り離して考えられるようになりました。

好きな人に愛されなくても構わない。ましてや好きな人に別の愛する人がいても、私の幸せとは関係がない。
誰かに大事にされる必要はない。自分が自分を大事にする方法をわかってるから、そっちを選んだ方が手っ取り早い。
誰かが自分を必要としてくれるのは光栄だけど、誰からも必要とされなくてもいい。それでも毎日楽しく生きていける。

それまで何よりも大事だったことが、大事だけど代えがたいものではなくなった結果、ヘドロは砂漠へと変貌を遂げました。

 

ドライになって困ったこと・その対処


ここからはドライになった結果、ウェット時代は考えられなかった弊害が出ているので紹介します。
これがあるから、こんなドライがもてはやされる世の中だけど、私は無理に転換する必要がないと思っています。

① 他者に対する期待をまったくしなくなった


自分の幸せを他者に委ねないと、期待することがなくなります。
「私のことが大切ならこうしてくれるはず」という感覚がないのはいい方に作用することもあるのですが、
時としてめちゃくちゃ悪いように作用します。
例えば、

 

・頼み事をしていたとしても、裏で自分でもやっておくまたはやれるリソースは残しておく。絶対してくれるはず!という期待がないせい。
・そもそも頼まない。店の手配や旅行の計画とか、「誰かがやらないといけないが誰がやってもいいこと」は自分でやる。自分以外の人がやってくれると期待していないから。その結果勝手に一人で疲れてたりする。
・これらの行動を「気配り出来るいい人」と好意的にとってもらえればいいけど、「自分を信頼してくれない人」「なんでも決めちゃう独善的な人」ととられることもあり、周りに不快感を与える時がある。

 

とくに一番下が最悪です。責められても気の利いた弁明ができないのでゲームオーバーと思っていいかもしれない。
一応、動く前に誰かがやってくれないかどうかちょっと待ってみたり、リソースあるのにないふりしてお任せしたりして自分なりにバランスとっています。無意識にバランス取れるようになりたい。。。

 

② 人と関係が深くなりにくくなった


好きな人と会ったり連絡取ったりすることがそこまで大切ではなくなってしまいました。会えたらうれしいけど、会えなくても不幸せではない。私の場合は幸福になることよりも、不幸になることを避けることの方がモチベーションが上がりやすいようです。
中村中の『友達の詩』が沁みます。

www.youtube.com

大切な人が見えていれば上出来。友達くらいで丁度いい。もっと言えば見えてなくても生存確認がたまに出来るなら御の字です。SNSが発達した今なら生きてるかどうかくらいはわかりますからね。

そうなると、本当に人を食事に誘ったり連絡取ったりすることがなくなるんですよ。。。
現在のパートナーに対しても、

パートナー「今週末会える?」
私「会えない」

のみの連絡を毎週金曜日に繰り返すだけの付き合いでした。
月に1回くらい「日曜の昼間なら会える」とかに返事が変わって、そこで数時間会うだけで、それ以外は雑談含めまったく連絡を取ってませんでした(今は同居してます)。

また、恋愛以外の面でも、人と関係を持つ一番の原動力って、「誰かに頼る」なんですよね。
前述のように、他者には期待せず自分のことは自分でやっちゃうから、頼る関係の持ち方は使えない。
ただ、人間関係がドライ=人間関係が要らないというわけではないんですよ。ウェット時代私はそこ勘違いしてたけど。。
そのため、代わりに頼られた時は全速力で対応するようになりました。バイネームで頼られてなくても動きます。
友人が人恋しそうな病みツイートしてたら連絡して会う約束取り付けたり、ゆる募には極力手を挙げたり。

 

つまり、ドライでも人間関係には結構労力を使ってます。
ウェットな時本当にこれがわかってなくて、「ドライな奴らはウェット側の私達に人間関係の面倒を押し付けている…!」と恨んでいたけど、全然そんなことなかった。
違う人同士で関係を持つんだから、皆一定の労力は使ってます。使ってない人はそもそも人間関係築けないんだから、そこにドライもウェットもないんですよね。

 

まとめに代えて

結論としては下記3点です。
・ドライも案外対人において気を遣ってる
・「人と接しない方がいい人」と「人と接しなくても幸せな人」は違うことを知れるといい
・ウェットな自分がしんどいなら、自分と向き合って、自分で自分の機嫌を取れる手段を見つけるとよい

この3つ目の「自分で自分の機嫌を取れる」も最近もてはやされてますよね。
どちらかというと、自分で自分の機嫌を取れない人を叩くのが流行ってるというか。
私は、自分の機嫌が取れない人をそこまで責めるのもどうかと思っています。だって他人にやってもらった方がご機嫌になれるもん。ただし、それが気軽に手に入らない時の非常食として、ローコストで自分で自分の機嫌を取る手段は持っておいた方がいいかなと思います。それを持ってないと、周りに「おなかがすいたからごはんをくれ!!!」とわめきちらすヘドロウェットになるので。もしくはそれを言えずに一人で餓死するか。

 

時代の潮流とか、年齢による変化とかで、自分自身は何も変わってないのに求められる人物像が変わって、マジでしんどいですよね。
私に起きた変化が、少しでも参考になれば幸いです。